小説 多田先生反省記
5.一番弟子
東京から運んだ僅かばかりの本は下宿の本棚に飾ってあるので、研究室の書棚は空っぽなので授業を終えて部屋に戻っても所在無い。それでも下宿の窓のない部屋で鬱蒼たる心持でいるよりは、我慢して夕方までぼんやりと煙草をくゆらせている方がいくらかでも気が紛れる。あの晩から折に触れて大野がやってくる。あれこれ博多をめぐる歴史話を聞かせてもらい、時にはそこかしこと案内してもらって最後は必ずどこかのお店に引っ掛かるようになって久しい。一週間も顔を出さずにいると授業が終わったところで「ちょっと研究室に来いよ」などと声をかける。いつの間にやら「研究室に来い!」ということは「呑みに行こう!」という取り決めにも似たコトバになってしまった。大野が研究室に顔を出し、かわたれ時ともなって世間の皆さんが家路を辿る頃合いになれば私達二人はいそいそと大学の門をあとにするのである。
「先生、かばんお持ちします」
「いや、いいよ。偉そうに持たせているみたいで格好悪いから」
「いや、僕がそう見られそうなんです」
珍しく授業を終えて明るいうちに下宿に戻り、次の授業の下調べをしているところで、がたぴしと音を立てて玄関が開いた。「多田先生、おらっしゃぁとですか?」大野の声だった。一人ではない。お供を従えている。見たことはあるような顔だったが、誰なのか判然としない。「神崎です」と名乗られて大野と同じ『や組』の学生であることが分かった。二人を窓のない部屋に招じ入れた。机の上の数冊の参考書をさりげなく片付けて二人と対座したところで婆さんがお茶を持ってきてくれた。
「昔、小学生の頃ね。お袋とお茶を飲んでいたんだよ。お菓子が何にもなくてさ。子供の時分だから、お茶だけ飲んだって旨くもなんともないんだ。それで俺、云ったの。『ソチャって不味いね』って。そしたらお袋、すごく怒り出してさ。『なんて勿体ないこと云うんだろうね、お前は。高いお茶なんだよ』ってね」
「先生、それにしても粗茶なんて言葉、小さい頃から使ってらしたんですか。偉いですね」
「偉かないよ。お菓子を食べないで飲むお茶をソチャって云うんだと思い込んでいただけよ」
「それなら空茶でしょ」
「そうなんだよな」
襖の向こうで婆さんは聞き耳を立てていたらしい、例のごとく「ヒッヒヒ」と妙な声を出しながら煎餅を運んできてくれた。
「ところで、神崎君、君は出身はどこなの?」
「佐賀です」
「ああ、そう。やっぱり下宿してるの?」
「ええ、賄い付きです。部屋は4畳半で、セバカですけど」
「何、その何とかバカって?」
「狭いっていうことです。大野、博多ではそがん云わん?」
「知らん、そげなこと。俺、博多んもんじゃなかけん。ね、先生」
「それにしても九州弁て、よくわかんないね。この間なんかさ、夕飯の時、ちょっとおばさんが席外していたんだ。そしたらね、九大の学生がさ、城南の高校生に向かって『ちょっと、飯ばよそっちゃらん?』って云うんだ。要するにご飯をよそってやれって云ったんだよね。これっておかしくない?」二人は怪訝な顔をしている。「よそってやれ、という言い回しは誰か第三者によそってあげろっていうことになるんじゃないかな?そんじゃなかったら、相手の身分は同等以上の者でなくちゃいけないよね。どっちにしても大学生が高校生に向かって自分のお茶碗を差し出してそう云うのはどうしたって変だよ」
「そがんですかね?」神崎は腑に落ちないという風に云った。私は声を低くしてさらに続けた。
「他にもね、おばさんが俺に云うわけ。『シェンシェイ、そこのラジオばなおしちゃってやらんですか?』って。これも身分は俺の方が下だということになるわけだけどさ、それはいいとして。いくら大学の先生でもさ、ラジオの修理なんか出来ないって断ったんだけど、笑われちゃった。片付けるという意味なんだってね」
「佐賀でもそがん云いますヨ」
「それに、怒ることは・・」
「腹ばかきよぉ、でしょ」
「そうなんだよね。佐賀でもそう云うの?」当然だと云わんばかりに神崎も頷いている。
「んじゃ、笑うのは背中掻く?」三人して大笑いした。
「ところで、ここも4畳半だよ」
「イッ?6畳でしょ。僕の部屋、こがん広くなかですよ」
「そうか、君のところは江戸間なんだ。九州にあっても江戸とはこれ如何に?」神埼は訳柄がつかめない面持だ。
大野が口をはさんだ。
「江戸の仇を長崎でって云うじゃないですか。それは関係ないか。あのな、神崎、江戸間っていうのはね、昔、柱の間の寸法は関西と関東では基準が違っていたわけよ。曲尺で」
「カネジャク?」
「神崎、お前、曲尺も知らんとか。ほら、大工さんの持っとぉ物差しタイ。わかろうもん。関西の方ではその曲尺6尺5寸、大体196センチくらいかな。それを一間としたわけよ。そいでね、関東では5尺8寸、176センチを一間としたとよ。今はね、昔は中京間って云ってた6尺3寸、190センチちょいが京間って云うとるんやけどね。そうですよね、先生」
「大野はなんでもよく知ってるね。偉いね。ボクァそんなに詳しくないよ」
「まさか、先生。先生だってご存知の筈ですよ。学校で習いましたもん」
「その日は学校休んでたんじゃないかな。神崎君、君の下宿はわりと新しいお家?」
「ええ、そうですね。ここよっかは」神崎は声をひそめてそう云った。
「江戸間で作ってあるからここよりも狭いんだ」
「そげんこつありますよ。多分、ここよりも一畳ちょい狭か筈です、神崎の部屋は行ったことはないですけど。神崎、話が途中やったけどね、もう少し話せばな、京間の畳は今じゃ、長さ6尺3寸、幅が3尺1寸5分のを云うわけよ。勉強になったろうが。ところで先生、お勉強の最中じゃなかったんですか?お邪魔してしまったようですね」
「いや、そろそろ飽きたところだった。一緒に風呂に行かないか?」
「風呂ですか?こげん明るいうちから・・・」
「明るいうちだから行くのさ。暗くなったら呑みに行くのよ」
すべてを語る必要はない。大野にはそのあたりの呼吸はぴたりと伝わる。どこまでも怪訝な顔の神埼を連れて私たちは歩いて数歩の所にある銭湯に出かけていった。
「先生は東京にいらした頃もこんな時間に銭湯に行ってたんですか?」
「いや、家に風呂はあったからね。学生の時テレビ局でアルバイトしていた頃は夕方になると銭湯に行ったね。テレビ局っていうのが赤坂にあってさ」
「神崎、赤坂ったって天神の隣の赤坂とはちゃうよ」
「わかっとぉ!」
「神崎君、君の下宿では風呂はどうなってるの?」
「僕んとこはあります。一日置きなんですけど。先生は、また、どうして夕方なんですか?」
「夕方はね、芸者さんが来るのよ。しゃなり、しゃなりとね。もっとも入り口で右と左に泣き別れっていうことだけどね」
「やっぱり、下駄をからこら鳴らしてですか?」
「この間はね。下宿の高校生と一緒に風呂に来たんよ。そいでさ、石鹸で頭洗おうとしているからシャンプー渡したのさ。これは親父が造ったカツラ用の特別性だって云ってね」この先どんな話になるのかと二人は聞き入っている。
「いやぁ、ヨカですね、こんシャンプー、ってね。坊主頭なのにさ」呆れ顔の二人を相手に私は続けた。
「この坊や、矢張り高校生だね、よく飯食うんだ。朝飯なんか何回もお代わりしてるよ。たまに食いすぎているっていう引け目があるのかな、ご飯の上に卵を割ってさ、醤油かけて食い始めてから、『醤油ばかけすぎた、もっとご飯よそっちゃやらんと』、なんて云いながらご飯を足してたよ」
風呂に入ってさっぱりしたところで婆さんに夕飯を断った。
「また、出かけんさっしゃぁとですね?ヨカね、大野さん。先生、飲み過ぎんこつ、はよ帰りんしゃいヨ!」
夜になると引っ切り無しに出かけているので婆さん口やかましくなってきた。時には大野も一緒に酔って帰り、そのまま私の部屋に泊まっては、翌朝のお膳に一緒によばれたことも一度や二度ではない。初めに附小の先生と行って以来、馴染みになった小料理屋で飲み、これまた大野と開拓したスナックへとはしごを重ねた頃にはお酒を呑み始めて日も浅い神崎はカウンターに着くや居眠りを始めた。
「俺は来週、東京に行ってくる。学会があるんだ」
「東京ですか。いいですね。僕はまだ行ったことありません。かばん持ちでお供したいものです」
「東京の大学は受けたことないの?」
「ええ、遠すぎますもん。九大しか受けられんとです。肩身の狭い養子の身ですから。呑むのだって気を遣いますよ。親父はあんまり呑まんとです。弟、真ん中の弟ですけどね、もちろん今の親父の子ですから僕とは血の繋がりはないんですけど、こいつと家で呑んだことがあるとです。博多大学のラグビー部なんですが、これがまた強いとですよ、お酒が。二人して一升空けたんです。そしたら親父が怒ってですね、それ以来私たちに酒ば呑ませてくれんとです」
「ま、しっかり呑めよ」
「はい、いただきます」
「君はさ、城南には2回受かってるんだったよな。うん、それで3回目にして城南に入った」
「そうです。僕は本当は城南には入りとぉはなかったとです」
「どうして?」
「どうしてって?僕は仕方なかったとです。これ以上は親に迷惑をかけては申し訳ないですけん」
「親に申し訳ないから、妥協したってわけか?」
「ま、そんなとこでしょうかね」
「お前ね、ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、だぜ」
「鴨長明ですね。そうです。世の中、無常です」
「そんなんでいいのか?親に申し訳ないなんて言いながら、城南にいたって面白くもなんともないんだろう?」
「面白くはなかです。でも、先生と会えましたし、こうしていつもお酒ご馳走になっていて・・・」
大野の唇はおちょぼ口になって前に突き出てきた。酔いが回ってきた証しだった。
「酒ぐらいいつでも呑ましてやるよ。でもな、お前、それでこれから先、満足できるのか?親に遠慮してよ、入りたくもねえ大学に入っちまって、この先どうすんだよ。やめちまいな、城南なんか!」
「そんな、先生!」
「そんなもこんなもあるかってんだよ。自惚れんじゃねえよ。どうせ九大受かんなかったくせに、城南、舐めてんじゃねえか?」
「いや、僕はそんな意味で云ってるんじゃありません。僕は・・・」
大野は泣き出した。神崎が目を覚ましてきょとんとしている。私は支払いを済ませてさっさと表に飛び出した。図体の大きな大野を抱えて神埼は途方にくれていた。